身近な戦争体験記
ふりかえれば11月。授業で、立花先生が「若い人は身近な人に戦争の話は聞かないものなのかな」とおっしゃった。何だか気になって地元に帰省の折、聞いてみることにした。
戦地に行ったと聞いて思い出すのは母方の祖父だ。祖母の家へ行くと水平服姿の写真が飾ってある。ところが母も叔母も子供の頃に終戦を迎えて祖父の話を全然覚えていない。「兄ちゃんが生きていればねえ」「Aさんはもう死んでいないし、Bさんも2年前に亡くなったし」……。コタツを囲んで2人とも困った顔をしていた。それでもぽつりぽつりと話を聞き、万年筆で律儀に書かれたはがきを見せてもらった。
祖父は町の食糧営団長だった。営団とは国家が統制目的で作った特殊法人で、2004年まで続いた営団地下鉄が代表的。食糧営団は1942年に制定された食糧管理法に基づき米の備蓄や供給をしており、祖母の兄が県の食糧営団に勤めていたことから誘われたという。
海軍に徴兵されたのは翌43年らしい。身分は砲兵少尉で、当時のはがきには「東支那派遣軍節9407部隊毛利隊」と「南支那派遣軍節9407部隊毛利隊」所属とある。「1枚1枚脱イデ、イマハシャツ1枚、夏服デモ暑イデス。南国ニテバナナノ木モ生エテイマス」と書いてあるのだが、肝心の地名がつぶれていて読めない。この部隊の行動を記した資料があれば当時の祖父の任務や足跡が分かるのだが、探すすべを知らない。
内地に戻ってきた後は、金沢、小倉、長崎の旅館から手紙を送っていた。叔母は会津若松で、マントを羽織った祖父が馬に乗って坂を下る途中、道の両端にいる歩兵が一斉に敬礼したのを覚えているという。最後は戦死ではなく久留米の病院で盲腸をこじらせて亡くなった。内地での病死のため恩給がもらえず、残された一家7人は困窮した。祖母はうどん売りをしながら日本遺族会や元同僚の兵士に陳情に行ったらしい。祖母は「あの時船が沈没していたら、恩給ももらえたのに…」と話していたそうだ(ブラックジョークではない)。「先生だったら食いっぱぐれない」と母を含め女きょうだいが先生になった話は昔から聞いている。
富山大空襲があった45年8月2日、家族は大八車に金庫を乗せて公園へ避難した。今は亡き叔父が屋根に上って双眼鏡で遠くに見える富山市内を見ていた。当時5歳の叔母も低空飛行でB29が飛んでいくのを見たらしい。遠くの空を見ながら、「花火みたいだ」「きれいだねえ」と訳も分からず言っていたと祖母が後で話していたそうだ。
余談だが、富山市に7月26日に模擬原爆が投下されており、投下したのは8月9日長崎市に「ファットマン」を投下したB-29「ボックスカー」だった。富山は原爆投下の練習場所だったのだ。広島に原爆を落とした「エノラゲイ」は名古屋で模擬原爆を投下したらしい。
母も叔母もすでに70代。この年代でさえ戦争はもう遠い存在である。
<おまけ>
若い世代が戦争を語り継ぐ上でブログも有効だと感じた次第。ご参考。
大東亜戦争従軍記
http://war.komagata.org/
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