どんな問いを立てるのか
4月が近づき、新入生歓迎行事の案内や論文合宿の案内、追いコンもあり忙しい。
最近私の通学も周知されつつあり、一部の方には「まなんでは学校行かないとうるさい」と思っていただけるようになった。一緒に同僚とお昼に行くと「何を勉強しているの?」などと関心を持っていただける。一方人に話してみると自分の熱意の伝え方やテーマの掘り下げ具合も見えて困ってしまう。
腑に落ちないのは、自分が立てた「問い」が社会問題の表層的なレベルの解決だけに留まっているのではないか、また自分のライフワークにリンクしていないのではないかという消化不良の思いだ。
もうひとつは会社とのバランスである。昨年は無理やり合わせてみようともしたが心理的に抵抗感が出た。だからといって孤高のテーマをやる気もない。学校に来たからには、会社との関連があり、その場限りのビジネスとは違う、もう少し深い話を提示できるようにならないだろうか。
今やっている平和教育も先生のご関心からフィールドワークが始まっていて、学生は先生の後を追いかけて知識を深めている段階にすぎない。「平和教育を学んで自分なりの新たな切り口ができるのか」というところまで持っていく必要があるのだろうが……。
そもそも平和教育の話は「学ぶ人々」のひとつの要素にしかすぎない。その下には土台が必要だ。前にも書いた通り昨年バラバラにやってきたことをまとめないと今年も同じ目に遭うだろう。
というわけで今月末の中村ゼミ合宿。計画書はうまく書き換わるだろうか?
最近私の通学も周知されつつあり、一部の方には「まなんでは学校行かないとうるさい」と思っていただけるようになった。一緒に同僚とお昼に行くと「何を勉強しているの?」などと関心を持っていただける。一方人に話してみると自分の熱意の伝え方やテーマの掘り下げ具合も見えて困ってしまう。
腑に落ちないのは、自分が立てた「問い」が社会問題の表層的なレベルの解決だけに留まっているのではないか、また自分のライフワークにリンクしていないのではないかという消化不良の思いだ。
もうひとつは会社とのバランスである。昨年は無理やり合わせてみようともしたが心理的に抵抗感が出た。だからといって孤高のテーマをやる気もない。学校に来たからには、会社との関連があり、その場限りのビジネスとは違う、もう少し深い話を提示できるようにならないだろうか。
今やっている平和教育も先生のご関心からフィールドワークが始まっていて、学生は先生の後を追いかけて知識を深めている段階にすぎない。「平和教育を学んで自分なりの新たな切り口ができるのか」というところまで持っていく必要があるのだろうが……。
そもそも平和教育の話は「学ぶ人々」のひとつの要素にしかすぎない。その下には土台が必要だ。前にも書いた通り昨年バラバラにやってきたことをまとめないと今年も同じ目に遭うだろう。
というわけで今月末の中村ゼミ合宿。計画書はうまく書き換わるだろうか?
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