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大連の旅その後(3)

 先週末は財団法人満鉄会の天野博之さんにお会いして、広報紙に書いた内容について意見をいただく。

 年初から同会を訪問するつもりが長引いてしまい、電話でどうして来ないのか、書いたものは核心というより周辺の話ではないかと言われる。お叱りはお叱りでも熱意あるお叱りはありがたく「では明日会いにいきます」ということで横浜へ。

 実際会うと一次資料のコピーや、同会の会報、図書館で借りられないパンフレットなどを見せてくださる。知らなかった事実も分かって早く会えばよかったと後悔。行政の広報紙には戦争に関する記述は慎重にということで削除されたが、有意義な時間でした。

 天野さんの最新刊はこちら。今月20日ごろ発売。
満鉄を知るための十二章(吉川弘文館)

 満鉄で働いていた婦人社員や、社内で行われていた教育、医療の話は他の本ではなかなかふれていないとのこと。
 天野さんは大連出身。満州での暮らしは技術的に日本より進んでいて引き揚げの時驚いたそうだ。
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満鉄・731部隊の足跡を求めて~中国へ(番外編1)

大連の最終日午後は、街めぐり。

大連の繁華街にある勝利広場。地下街の原宿・竹下通りという感じだ。
Bちゃんに「ここは絶対撮影はダメ」と言われた。
階段を下りるといきなり「千葉店」という看板が目に入る。
何かの店の千葉店ではなく、「千葉店」という店名。ここは偽ブランドショップ街だ。誤解なきよう言うと、全てが偽ではなく、一部がそうだということであり、様々な店があるということだ。
奥にはキャラクターグッズのドンキホーテのような場所がある。
ヴィトン柄の鏡を見つけた。11元である。

Bちゃんが読んでいるのはCamCamの日本語版。中国は北京、上海、南京、大連と見てきたが、女性がおしゃれなのは上海と大連だ。日本の神戸と横浜に似て対外開放が早かったからだろう。大連の女性は日本人の服装に近くて中間色の取り入れ方がうまい。

小部屋の地べたで若者が座って洋服を売っている。
紹介してもらったのは手づくり人形の店。手足が長いオリジナル人形を作ってもらった。壁にかけてある洋服を選んで、髪型をカットしてくれる。約20分で完成。95元。
 春節休みを取ってアルバイトしている学生とBちゃんが初対面なのに延々と話していた。皆顔見知りでもないのにおしゃべりだ。

 こんなに日本に近い大連なら、日系のファッションブランドだって進出していいものだが、地元企業の力が強く、実現しにくいという。
 経済成長の途上にある中国の若者も就職難だ。中国の場合、地元の有名な大学に行き、さらに留学して箔を付けるのが一般的だという。日韓中ともに就職難。
 Bちゃんは小中学校を首席で卒業。大学ではホテルマネジメントを専攻。「中国は勉強ばっかり。日本の大学でもうちょっとココロを勉強したいのよね」と面白いことを言う。

 Aさん曰く「こちらの学生はまじめ」「大連では中国では珍しく若い女性を『小姐』とよばないんですよ」。

 今回中国入りしたのは春節の最終日。夜になると爆竹と花火大会。
団地の中で打ち上げ花火大会並みの花火が「ドカーン」と鳴っている。夜もうるさくて眠れない。
「姪のために爆竹で500元使いました」とハルビンのガイドのMさん。
 春節期間中に飛行機から見下ろすと、あちこちで花火が上がっているのが見えてきれいなのだった。
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満鉄・731部隊の足跡を求めて~中国へ(4)



 翌日はAさん、Bちゃんと「大連満鉄旧址陳列館」へ。満鉄関連の本格的な資料展示は本館が初めて。最近できたばかりだという陳列館のチラシをもらう。

 1908年に完成した本社は、ロシア統治時代に学校だった建物だ。現在は市の鉄道局の事務所等に使われている。
 満鉄本社の大連移転100年を記念して、07年に左半分を市から借りる形で作られた(一般公開は同年9月10日)。展示館部分(総裁室と社員用の礼拝堂)は陳列館を作る前、倉庫だったという。

 館内で変わった所は1階部分の廊下位。職員に給与を払う窓口も残っている。2階の廊下は木でできており当時のままだ。

 びっくりするのが、Aさんらが展示館を整備するまで満鉄時代の展示品が倉庫にあったり普段使いされていたりしたということ。価値のあるものとは中国側も思っていなかったらしい。
 総裁室に棚が置いてある。「ここを見てください」と言われ棚の右上を見ると、確かに「総裁室」のプレートがある。「倉庫にありましたがこれで総裁室のものだと分かったんです」
 総裁室の前にある秘書室の椅子。「2年前まで実際に使われていたんですよ。満鉄のマークが付いているでしょう?新しい椅子と交換してもらったんです」

 展示館部分でAさんがもっとも苦労するのが入口にある「前言」パネルの内容だ。すでに書き換えは4回しているが文章が確定していないので、ビニール素材で文字が作ってある。
 一部の満鉄関係者は直接軍事行動に関わっていないと主張しており、日中で歴史見解が合わない。「調整の上、早く正式な文章として公開したいのですが」とAさん。
 先日見学した遊就館の展示内容も外国の圧力で変更されてきた。日中両国の利害のぶつかり合いはここでも行われているわけだ。

 館内のパネルは全て中国語。「日本語訳も付けたいんですが」。ここでも歴史認識の問題があるようだ。パネルは約50点。展示物は食器、カーテン、時計など約60点。

 テーマは4つに分かれる。特に後藤が満鉄の経営理念として力を入れた「文装的武備」のコーナーの写真は豊富だ。

 満州支配で重要なことは武力だけではなく経済的文化的開発を施し、教育、医療、交通などのサービスを向上させることだった。大連市図書館などが集めた写真は見ごたえがあり、「これも満鉄がやったんですか?」「これも?」「これも?」という位、大連市の公共サービスを満鉄が担っていたことがうかがえる。満鉄の鉄道技術は東海道新幹線に生かされており、「ひかり」「のぞみ」の名前は満鉄時代に走っていた急行列車の名前と同じだ。
最後の満州事変の展示については、「やめましょう」とAさんは黙ってパネルの前を通りすぎた。

 総裁室には歴代総裁のパネルがあるのだが、Bちゃんは「この人の本を読んだ」とある総裁の写真を指し示した。指差した先は「小日山直登」。第16代総裁だが、日本で有名な総裁というと、後藤や中村、松岡洋右を思い浮かべるのだが……。中国側で印象に残る総裁は違うのだろうか。

 展示物は関係者がオークションで買い集めたり、発掘を続けている関係で、少しずつ増えているらしい。防火用の水がめが置いてあったのだが、買ったものだそうだ。街中にある満鉄グッズの店にあるものは偽物だという。
 展示品の中でAさんが感慨深そうに見ていたのは、チチハルで発掘された満鉄総裁のものも含む社章バッジだ。青、橙、黄、緑、黒(総裁)のバッジが箱に整然と並んでいる。

 Aさんとしては、建物の一部に限定されている陳列館を拡張できないかという思いがあるそうだ。一方でAさんに対する支援は少ない。「この活動、どうなっていくんでしょう。取り組むのは自分が最後じゃないでしょうか」とAさんは言っていた。
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満鉄・731部隊の足跡を求めて~中国へ(3)

 昨日の昼、大連空港に着いた。
 駅前にあるホテルに出迎えてくださったのは某航空会社勤務のAさんとオレンジ色のコートに身を包んだ地元の女子大学生のBちゃん。
 将来は日本に留学希望だという彼女、ヴィトンのバッグを下げて、風貌も口調も日本の今どきの女の子と全く変わりがない。大連は語学教育に力を入れており、彼女も6歳から英語を勉強していて堪能だ。日本語も片言だが、聞き取りは完璧で学習期間が1年未満とは思えない理解の早さだ。

 大連は「日本語の町」だ。ホテルで日本語で迎えられ、街でも日本語を話す人が多い。フロントの20代男性にビデオケーブルを借りようとして「ヨドバシカメラみたいな所はですね……云々」と言われ、中国でこういうかゆい話が通じることははたしていいのか?などと心の中で軽く突っ込んでみたりするのだが……。彼は先月まで日本に留学していたそうだ。

 説明を受けたのだがいただく大量の資料に一学生として恐縮するのみ。Aさんは私に限らず週末は社会貢献として、色々な方々の大連案内を行っていおられるという。実は前日から3度ほど国際電話をいただいてどことなく資料のニーズなどを聞かれ、頭の下がる思いだった。
 またAさんはビジネスや学生の職業訓練の分野にも詳しく、若い世代も含めて幅広く交流をしておられるようだ。

 満鉄に関わったのは2000年からだということだが、裏では行政を巻き込み「大連満鉄旧跡陳列館」建設に協力するなど大掛かりな保存活動となっている。今も次のプロジェクトを進めておられるということ。旅順は現在一部の地域しか見られないのだが動向が注目される。旅行業界は次の観光地を開拓するという意味で新しく観光できる場所に敏感のようだ。
 
 大連は、満州のイメージが強くシニア層の旅行客が中心だといわれるが、実は国内では中国で一番美しい町ということで若者に人気であるそうだ。ガイドブックで紹介している繁華街ももう古いのではという話を伺う。「満鉄等この街を作った土地の伝統とトレンド感がある場所の両方を知ってもらいたい」とAさんは言う。

 続いて市内へ。旧題連市役所、旧ヤマトホテル、旧横浜正金銀行大連支店、旧社宅、旧本社など、当時の満鉄の建物が今でも使われていることに驚く。中山広場から放射状に広がる街路は、かつて満鉄の二代目総裁中村是公がパリで研究した都市構造が今もまちづくりにそのまま生きている。電柱や信号も少ない。
 大連市が多くの満鉄の建物を現在でも保存、活用しているのは満鉄の高度な技術があったからこそだ。
 それでも若い世代はこの建物が満鉄のものだったということを知らない。旧ヤマトホテルも初めて入ったそうだ。

 次に観光バスがあまり入らないという海岸線地域へ。当日は曇りだったが、青空で見たら絶景のドライブコース。老虎灘という6匹の虎のモニュメントの前に出る。
 Aさんいわく「このあたりのイメージは油壺ですね」。海洋動物園もあり(この時期やっていない)、確かに夏来たら、神奈川の沿岸部と勘違いしそうだ。この地域は中国共産党上層部が会談する場所もあるという。

 イルミネーションや建物の色彩が中華圏の色ではなく、ヨーロッパ風で若者に人気があるのもうなづける。ダボス会議の会場近くにあるマンションは中国一値段が高いそうだ。また、ブランド品は途中まではここ大連で作られて欧州で完成させる仕組みがあるらしい。
 他の地域では党の支配が強いが、大連市は地元行政の力が強い。国内でもリベラルな地域ではないかという話だった。

 大連は地下街も発達している。ウォルマートもカルフールも地下にある。若者がいく繁華街を見ようという話になったが途中で時間切れ。これはまた本日に回すことといたしましょう(^_^)。
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戦争遺跡ガイド



 先週末、立教立花組で日吉台地下壕に行った時に案内してくださったのは、26歳の若手戦争遺跡ガイドの石橋星志さん。石橋さんは日吉台地下壕、登戸研究所、靖国神社、東京大空襲・戦災資料センターで活動を行っているとのこと。石橋さんの話では、20代、30代の若手ガイドは沖縄をはじめ少なくないとのことで、「平和の想像力」(新日本出版社)を紹介していただいた。 

 日吉台と資料センターでは、「悲惨さを伝えつつも泣かさない」ガイドを心がけているという。「平和や命の重要性は伝えたいが、死という現実をただ直視させるのでは子どもも大人も意識は変わらないし響かない」とのことで、当時の報道写真を見せながら、映像メディアの特質を話したり、引いた目線の話もあえて盛り込むのだそうだ。

 石橋さんのブログはこちらから。

 戦争遺跡ガイドのブログ
http://senseki-guide.txt-nifty.com/blog/
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【立教立花組】浅川地下壕見学



 中国行きが延期になり、少しの時間だが浅川地下壕の見学会に合流させていただいた。

 浅川地下壕は、太平洋戦争末期、本土決戦に備えて陸軍が軍事施設を隠すために掘られた地下壕のひとつ。当初倉庫として作られたが、中島飛行機武蔵野工場が空襲に遭ったため、軍用飛行機のエンジン工場も稼動していた。中島飛行機は、世界有数の飛行機メーカーで、終戦直前にはロケットエンジンの開発も行っていた。現在の富士重工業や日産自動車等関連企業が残っている。

 現在史跡指定を受けている地下壕はここ浅川地下壕(東京都八王子市)、山海軍航空隊赤山地下壕跡(千葉県館山市)、日吉台地下壕(横浜市港北区)の3つ。24日に日吉台に行くので、あとは赤山地下壕跡に行けば日本の三大地下壕制覇だ。
 http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?stoid=1892
 
 全長10キロの地下壕だけあって、高尾駅を降りて途方にくれた。本日は途中参加なのだが、見学中は皆携帯が通じない(地下壕にアンテナがあるわけない)。合流には手間取った。中島飛行機武蔵製作所第1製造廠があった「イ地区」のほか、「ロ地区」「ハ地区」がある。

 私が見たのは未完成の「ハ地区」。普段の見学は「イ地区」のみで「ハ地区」は崩落の危険性が高く見る機会が少ないようだ。見られるだけでもありがたい。入口で時代屋さんと「浅川地下壕の保存をすすめる会」の方が待っていてくださる。

 ヘルメットと軍手を借りて体を折り曲げ、狭い入口を入る。初めから頭をぶつけ、ごみとがれき、割れた陶器、とがった岩に足を取られる。誰でも入れる見学者コースではなく、懐中電灯で足元を照らして岩につかまってすべらないようにするだけで精一杯だ。暗闇の中、1人ではとても怖くて入れそうにない。
 
 優れた削掘技術で作られた「イ地区」と違って通路は迷いがあるかのように蛇行して掘られている。土砂を運んだ枕木の跡や、分岐点で枯木が1本ぽつりと立っている場所もあった。
「子供の頃は、近くに防空壕があってよく遊んだよ。昭和20年代は家のない人が住んでいたこともあったんだよ」とゼミで一緒の時代屋さんは懐かしそうだった。

 「保存をすすめる会」十菱武さんの話によれば、現在一般には公開されていない浅川地下壕も、歴史的価値があり安全性を強化した部分を保存し、公開する予定とのこと。別の地下壕等で陥没事故等が起きているが今後行政の対応が必要だろうとのこと。

 ちなみに、高尾に残る戦争の痕跡は、JR高尾駅1番線プラットフォームの東側上り口付近の柱に残る銃弾跡と太平洋戦争最大の列車事件(いのはなトンネル事件)の供養碑がある。
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満鉄・731部隊の足跡を求めて~中国へ(1)

 登戸研究所、公開講演会「戦争をどう裁くか-裁きと許し」、新宿区人骨問題等、授業や授業で出会った人々を通じ、ふと頭の中に浮かんだキーワードは「731部隊」である。

 731部隊とは関東軍防疫給水部本部の事で細菌戦研究のために生体解剖などを行ったとされている。
 米ソとの裏取引で石井四郎ら幹部は東京裁判という「裁き」の場を逃れた(ハバロフスク軍事裁判にはかけられているが)。また登戸研究所で人体実験を行った人々も東京裁判では裁かれなかったという。

 ちなみに、ニュルンベルク裁判では人体実験は裁かれ、「ニュルンベルク・コード」という基準が生まれた(細菌戦は裁かれなかった)。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/vuniv99/exp-lec3.html
東京裁判では、南京虐殺における1644部隊の話題が若干出ただけだったそうだ。

 また新宿区の陸軍軍医学校は、731部隊と縁があり、登戸研究所で製造された化学物質も731部隊で使われていたという。
 やはり一度現地へ行って見てみるべきではないかと考えた。
 
 悪魔の飽食」「細菌戦部隊-731研究会編」「731部隊の犯罪」をテキストとして教えていただく。一方、書店で「七三一-追撃・その時幹部たちは」青木富貴子著「731」を購入。

 「悪魔の飽食」の中に凍傷実験のくだりがある。11月から2月にかけて、手足を冷水に漬け、戸外に立たせて風を当てて手を凍らせ(棒で叩いて凍り具合を確かめる)凍傷にする。マイナス20度の冬のハルビンの寒さはいかほどのものだろう。

 「マルタ」とよばれる数々の犠牲者のデータを引き換えに、731部隊は裁かれず生き延びている。
 青木氏の「731」は、細菌戦のデータが欲しい米ソと731部隊幹部がいかに取引したか公文書館の資料から読み解いている。また、ミドリ十字の前身「日本ブラッドバンク」はGHQの保護のもと作られたそうだ。

 一方菊池実編「ソ連国境・関東軍要塞はいま」を読むと、中国東北部には東寧、虎頭、ハイラル等の要塞があることを知った。この区域は一般の人々に公開されているのか不明だが、できることなら見てみたい地域だ。

 「ハルビンに行きたい」と周囲の友人に話していたら、現地にいる友人が一足先にハルビンに行って市街地の写真を色々撮影してきてくれた。道端でアイスクリームがそのまま売っており、凍てつく松花江を歩いてきたとか…「関口知宏おすすめのレストランはうまかった」とのこと(^^;氷まつりも一部始まっているようで、のんびりした雰囲気だ。
 関口知宏さんも立教大学出身なんですよね。
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身近な戦争体験記



 ふりかえれば11月。授業で、立花先生が「若い人は身近な人に戦争の話は聞かないものなのかな」とおっしゃった。何だか気になって地元に帰省の折、聞いてみることにした。

 戦地に行ったと聞いて思い出すのは母方の祖父だ。祖母の家へ行くと水平服姿の写真が飾ってある。ところが母も叔母も子供の頃に終戦を迎えて祖父の話を全然覚えていない。「兄ちゃんが生きていればねえ」「Aさんはもう死んでいないし、Bさんも2年前に亡くなったし」……。コタツを囲んで2人とも困った顔をしていた。それでもぽつりぽつりと話を聞き、万年筆で律儀に書かれたはがきを見せてもらった。

 祖父は町の食糧営団長だった。営団とは国家が統制目的で作った特殊法人で、2004年まで続いた営団地下鉄が代表的。食糧営団は1942年に制定された食糧管理法に基づき米の備蓄や供給をしており、祖母の兄が県の食糧営団に勤めていたことから誘われたという。
 海軍に徴兵されたのは翌43年らしい。身分は砲兵少尉で、当時のはがきには「東支那派遣軍節9407部隊毛利隊」と「南支那派遣軍節9407部隊毛利隊」所属とある。「1枚1枚脱イデ、イマハシャツ1枚、夏服デモ暑イデス。南国ニテバナナノ木モ生エテイマス」と書いてあるのだが、肝心の地名がつぶれていて読めない。この部隊の行動を記した資料があれば当時の祖父の任務や足跡が分かるのだが、探すすべを知らない。

 内地に戻ってきた後は、金沢、小倉、長崎の旅館から手紙を送っていた。叔母は会津若松で、マントを羽織った祖父が馬に乗って坂を下る途中、道の両端にいる歩兵が一斉に敬礼したのを覚えているという。最後は戦死ではなく久留米の病院で盲腸をこじらせて亡くなった。内地での病死のため恩給がもらえず、残された一家7人は困窮した。祖母はうどん売りをしながら日本遺族会や元同僚の兵士に陳情に行ったらしい。祖母は「あの時船が沈没していたら、恩給ももらえたのに…」と話していたそうだ(ブラックジョークではない)。「先生だったら食いっぱぐれない」と母を含め女きょうだいが先生になった話は昔から聞いている。

 富山大空襲があった45年8月2日、家族は大八車に金庫を乗せて公園へ避難した。今は亡き叔父が屋根に上って双眼鏡で遠くに見える富山市内を見ていた。当時5歳の叔母も低空飛行でB29が飛んでいくのを見たらしい。遠くの空を見ながら、「花火みたいだ」「きれいだねえ」と訳も分からず言っていたと祖母が後で話していたそうだ。

 余談だが、富山市に7月26日に模擬原爆が投下されており、投下したのは8月9日長崎市に「ファットマン」を投下したB-29「ボックスカー」だった。富山は原爆投下の練習場所だったのだ。広島に原爆を落とした「エノラゲイ」は名古屋で模擬原爆を投下したらしい。

 母も叔母もすでに70代。この年代でさえ戦争はもう遠い存在である。


<おまけ>
若い世代が戦争を語り継ぐ上でブログも有効だと感じた次第。ご参考。
大東亜戦争従軍記
http://war.komagata.org/
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謹賀新年

みなさま、あけましておめでとうございます。
昨年はこの21世紀社会デザイン学科に入学させていただき、皆様に会えたことをとてもうれしく思っています。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

                *

このブログ、実は抜けている記事がありわかりにくいのですが(実はいくつかエントリーされていない記事もあり、一気にやると新着情報を独占しちゃいそうで、怖くてできません)

振り返るならば12月初旬、学会発表なんぞしてみようと気まぐれを起こしたのが運のつきで、冬休みを前倒しに取ってしまい、周囲からは非難の的。
思わず
「ツケは年内に払いますので何卒ご勘弁を」と宣言したはいいけれど、大晦日までずれこみ、 年越しそばは会社でどん兵衛…。まあ何年おきかに食べると味がリセットされてオツですが。
何とか年内に終わり、東京タワーで年越ししたカップルと一緒に電車に揺られてその帰りに初詣、国際文化会館でおせちとお茶を……ほっ。
正月は読んでない本を読みたい…(+_+)
ところで、ある区議会議員のチラシを見ていたところ、戦争遺跡が図書館になっていたことをいまさら知った。1919年に建てられた旧陸軍兵器工場を改築したもの。

赤レンガ図書館について
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/272/atts/027236/attachment/attachment_3.pdf

軍施設に関連する資料
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/066/006605.htm

北区戦争調べ隊。小学生9人参加。知名度が低いのか。
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/press/323/032346.htm

若者にとっては、戦争遺跡もお洒落なのだ。
http://www.playnote.net/archives/001084.html

自治体によっても戦争遺跡の保存状況が違うというが、北区は活用がうまい方でしょう。

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戦跡写真家

 
 ネットで安島太佳由さんという方のサイトを見つけた。95年から戦争遺跡をテーマに撮影活動を続けておられるそうだ。最新の写真集は「要塞列島」。今月8日から11日まで「ラジオ深夜便」に出演されていたという。
 今年に入ってから、グアム、フィリピン、パプアニューギニアを訪れておられるそうだ。

 安島さんのサイトはこちら。
http://www.f6.dion.ne.jp/~yasujima/index.html
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軍医学校の人骨問題

 靖国神社のフィールドワークが無事終わり、長谷川さんにお礼のメールを送った。補足で昔、新宿区に住んでいたので新宿の戦跡にも興味があると話したところ、長谷川さんより、「人骨の会」の新宿戦跡ツアーのお誘いをいただいた。3月29日、お花見と兼ねて戦跡めぐりが決定。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/ivent1.htm

 陸軍軍医学校のあった戸山地区は昔の家の近所だ。概要は以下の通りだが、
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/document.htm
 問題は「佐倉鑑定」が出た後にあえて厚生省が人骨を焼却処分しようとした点にある。財務省若松住宅横の公園の辺りに未だ人骨が埋まっている証言もあり、今後の動きが気になる。これは行くべきだろう。長谷川さんありがとうございました。

 住んでいた頃の地元の話題は、第6陸軍科学研究所跡(新宿区百人町3丁目)の地中にイペリットガス弾遺棄疑惑だった。同研究所は私の田舎富山県高岡市でも出張所を作ってイペリットガスを製造していた。こんな所で結びつかなくてもなぁ……。
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登戸研究所展示資料館 プレ展示


明治大学が26号棟を改装して作る登戸研究所展示資料館のプレ展示を見に、三たび生田キャンパスへ。校門に着くと学園祭の真っ最中で騒々しい。学生に誘われて焼きそば食べちゃったよ…(^^;

会場の生田図書館にあった展示は地味だった。ガラスケースには石井式濾水機と登戸研究所に関する本があり、略年表と資料館の概要をパネルで紹介。講演会で聞いた内容とほぼ同じだ。
見学者数を聞いたところ、前日が約65人、今日は私が四十数番目と聞いた。1日45人見学として、11日間で500人程度は見に来ているようだ。
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質問メール(登戸研究所保存の会)

 見学会の後、登戸研究所保存の会の方に質問してみた。
 許可をいただいたので以下掲載します。
---------------

 登戸研究所保存の会の森田です。
 見学会に参加していただきありがとうございました。
 (中略)

<質問について>

(1) 今回壊される対象といわれている木造建築は学術的にあまり価値のないものなのでしょうか?

  渡辺(健二)先生の本などを読むと、当時の木造工場建築の工法からすると内部に柱なども無く、材料も確かなものを使用しているとの記述もあります。ただ、専門的な詳細調査などはこれからのようです。文化庁は全く未調査ですからそれらの判断はしていません。
  ただ、全国で重要な戦争遺跡50の1つとしてまもなく報告書が出ると聞いていますが…。報告書が出ないのも政治的な問題があるからとも聞いています…。

(2) 年間5億の維持費ということですが、市の試算は合っているのでしょうか。国の補助金はないのですか。

  「年間5億の維持費」はどこから出てきたのか、聞いていませんのでわかりません。
  私たちの会が、昨年3月に川崎市議会に対して「木造建物2棟の移転も含めた保存」と「明治大学が資料館を設立するのだからに物心両面で協力すること」の2点の請願をしたとき、川崎市の幹部は「木造建物2棟」を移築すると3億数千万円かかると答弁しています。
  国の補助は、沖縄とか広島のドームのような重要文化財になれば別ですが、登戸研究所ぐらいですと「登録文化財」に指定されるだけで、いろいろとランクがあってこの「登録文化財」というのは維持管理費もでない制度です。

(3) 川崎市議会の議事録を拝見すると、7月に議会で議論があったようですが

  7月議会では、おそらく無防備都市条例についての議論だと思います。これはまったく別の議案です。私たちは何も関わっていません。川崎市議会のホームページの平成20年第2回定例会会議録をみると、6月23日「33番斉藤隆司議員(共産党)」と、6月24日41番菅原進議員(公明党)が登戸研究所保存について質問しています。2人が同一議会で質問するだけでも大きな前進だし私たちにとっとは励ましだと思っています。ご覧になってください。

  大学はなんだかんだと言っても、資料館の設立まですすめているのですから、川崎市としても応分の補助援助をして次の世代にきちんと平和についてしっかりした教育をするべきで、そのための見て・知って・考える絶好の場所だと思っています。大学側の違法建築が発覚して木造建物の解体が猶予された機会を最大限に生かして多くの市民に知ってもらい、保存の機運を大いに高めていこうと思っていますのでよろしくお願いします。

 見学会における大学側の話ではもう壊されるのもやむなしという言い方だったが実際は検討の余地が残されているようだ。

 ところで、森田さんが(1)で取り上げた「調査書」は、文化庁が2002年に始めた初の軍事遺跡の詳細調査なのだが、たしかに未だに調査結果が出ていない。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-103480-storytopic-86.html
 文化庁によれば、昨年度末に出る予定が延期され今年度末に出る予定だとのこと。

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登戸研究所を見に行く

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 世間は3連休。せっかく休みだし、戦争遺跡のゼミに入った手前、実際に遺跡を見に行こうと思い立った。

 六本木にある旧歩兵第三連隊兵舎の前を時々通る。二・二六事件の時に反乱を起こした将校が出撃した場所だ。国立新美術館建設後に大半が取り壊され、現存する部分は10分の1にも満たないらしい。兵舎保存に対し、黒川紀章氏が激怒したらしいとか。

 体裁も遺跡というより美術品。ガラス張りで美しすぎて、これ遺跡?という趣だ。ポンピドーセンターの建築家が設計した政策研究大学院大学と国立新美術館の間に挟まれ、観光客にはオブジェと思われているかもしれない。

 もっと戦時の痕跡を留めた戦争遺跡はないのか?ネットを検索していたら、川崎市多摩区の明治大学生田校舎にある旧陸軍登戸研究所の写真がブログに掲載されており、興味を引かれた。

 陸軍には第1から第10まで技術研究所があり、登戸研究所は第9技術研究所の秘匿名で秘密戦器材を開発していた研究所だ。当時殺人光線や風船爆弾、原爆の研究もしていたという。陸軍中野学校にも関係の深い場所でもあり、東京裁判でも詳細が明かされず、帝銀事件で使われた毒物が同研究所で製造された青酸ニトリールであるとして話題になった。89年には毒物兵器に関する内部文書も市民グループの手で見つかっている。

 戦後明治大学が国から敷地を買い取り、校舎を利用してきたが、新校舎ができるたび当時の建物が壊されてきた。2005年には文化庁の軍事に関する近代遺跡のうち、特に重要で詳しい調査が必要とされる50件の中に選ばれている。

 関連書籍は多数出ているのだが、保存運動について調べると90年から署名運動が始まっているようだ。現存する施設が取り壊される計画が浮上したのが2005年。「旧陸軍登戸研究所の保存を求める市民の会」(http://www.geocities.jp/noboritokenkyujo/)が結成されたのが2006年。
 神奈川新聞によると、2010年までは暫定保存されることになり、文化財になるかどうかはこれからが正念場だという。
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiiaug080852/

 文化庁に選ばれたから取り壊す必要がないのでは…と思いきや、調査や保存は自治体任せというのは一体どういうことだろう。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200802070085.html

 個人的に戦争遺跡を見るなら研究所めぐりだろうか?第1から第10まで残っていればいいが現存している場所は少ないのだろうなあ。

 そんなわけで文化の日、小田急の向ヶ丘遊園駅で下車して生田校舎に向かった。
 正面を入り右手に見えるのは2004年にできた第二校舎A館。一見どこにでもあるような近代的なキャンパスだ。

 左に曲がり、研究室を見ながら5分ほど歩くと、1号館の裏手に突然、時間が止まったような空間が現れた。夏なら肝試しに使えそうな雰囲気だ。

 現存する5号棟と26号棟の2つの木造建築は、第三科と呼ばれる極秘部署の管轄だった建物。少し離れて風船爆弾や枯葉剤を研究していた36号棟がある。キャンパス内の地図にははっきり書いてあるものの、明治大学ホームページでは存在すらない。
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/ikuta/campus.html

 木造建築を見る前、構内の反対側にある弥心神社へ寄った。手水舎は枯れており、賽銭箱周辺の掃除も長らくしていない。研究中に事故死した職員をまつっているのにたたられやしないか?ここも夕方近寄るのは怖い場所だ。

 5号棟は中国に傀儡政権を作るために用意された偽札工場だった。離れた所で見入っていると、つなぎを着た学生がバケツを持って入っていく。おいおいそんな気軽に遺跡に入れるの?

 「入ってもいいんですか?」と聞くと、
 「ここ倉庫ですけど? 農具が入っているだけですよ」といぶかしげな顔をされた。
 蜘蛛の巣を真上に見ながら割れたガラス窓から中を覗くと、実験道具が置かれる物置になっていた。

 26号棟も同様の目的で使用された建物だがロープが張られ、入ることができない。ここにも大きな蜘蛛の巣。裏口に回るとツタ。いまどきこんな老朽化した建物は珍しい。

 食堂館スクエア21前にある、陸軍の☆マークがついた消火栓は、吸殻が詰め込まれ灰皿代わり(?)になっていた。半分地中に埋まっており、最初通った時は見逃した位だ。もうひとつの消火栓はベンチが並ぶ並木道。すぐ近くに農学部卒業生の植村直己の記念碑がある。

 大学の管理が行き届いていると思っていたが、一部普段使いもされている状況なのに驚く。現状では「文化財」という扱いではないようだ。
 今まで博物館で丁寧に保存され公開されている史跡や遺品ばかりを見慣れてきた分、保存がなぜここまで無造作になるのか不思議でたまらない。

 学術調査が一番の決め手なのだろうが、地域資源と言われるだけのインパクトは十分あり、壊すのはもったいないと感じた。以下の通り近々講演会もあるようなので見に行くことにした。

 というわけで登戸研究所の話は次回につづく。

 <登戸研究所に関するイベント>

 11月8日(土)10:30~12:30 講演会(明治大学生田校舎)
「明治大学登戸研究所展示資料館の目的と展示構想」山田朗(文学部教授)
「アジア太平洋戦争で陸軍登戸研究所が果たした役割」渡邉賢二(文学部兼任講師)

 11月17日(月)~11月27日(木)
 開設予定の登戸研究所展示資料館のプレ展示開催(明治大学生田図書館)

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